こと葉

「こと葉」

あの日こと葉はこれから客前に出るじゅんの身支度を手伝おうとじゅんの寝所を訪ねた。襖の前で声をかけると、じゅんがいつものスッとした声でどうぞ、と言うのでなるべく静かにこと葉は襖を開けた。窓辺に据え付けられた小さな机の上にガラスの華奢で小ぶりな一輪挿しがあって、一本のまっすぐで質素な花が活けてあった。じゅんはその前に普段と変わりなく背すじを伸ばしてこと葉の方へ背を向けて座っていた。夕刻の斜陽がするどくこと葉の目をついた。髪を結い上げたじゅんの白いうなじが逆光の温かな色で縁取られてやわらかそうに白く、あわく輝いていた。相も変わらずおくれ毛一つも出さずに結い上げていた。「じゅんちゃん、たまには身支度手伝わせてもらいたくてね。ここんとこ、忙しくさせてもらって、私じゅんちゃんとあんまり顔合わせられなかったから。」このところのこと葉といえばなんだかもう嫌気とうんざりで何もかも手放してしまいたかった。妙に穏やかな心持でいる自分を見ないように、店のことに精を出していた。できるだけ音を立てないようにじゅんの隣へこと葉は腰を下ろし、夕日に照らされたじゅんの横顔をはっきりと見た。「ことちゃん、お願いがあるの。」じゅんは言い終えてこと葉のひざへ自分の手を覆い被せるような形で置いてこう言った。

「わたしの顔潰してくれる?」

文鎮だった。丸くて持ち手の付いたどこにでもある安物の文鎮であった。こと葉は息が詰まってじゅんを見つめてしまった。「じゅんちゃん、私には出来ない」やっと出た声はつぶれるように、ほとんどが熱っぽい息の、ないまぜの感情が音になって出たようなものだった。じゅんはいたく冷たい目をしていた。確かに血は通っているのに、まるで陶器の丸い玉のような目だった。「ことちゃんは、もうわたしのお願いは聞いてくれないようになったんだね。」そう言ってじゅんはこと葉のひざの上の文鎮から手を離し、また窓の方へ顔を向けた。じゅんの手は熱っぽくやわらかですべらかさも変わらずこと葉は、苦しいくやしさに自分の腰の横へだらりと項垂れた腕の先できつく拳をにぎった。「わたしはいつも、ことちゃんの不器量がうらやましい。」じゅんの声はいつもと変わりなかった。

あれからすぐじゅんは病に伏して旅支度をこと葉にあれこれ頼む様はまるで童女そのものだった。日に日に弱っていくじゅんを遊ばせるようにかいがいしく世話しながら「必ず近く、ここの女たちみんな、私が自由にしてやる。」こと葉はそう固く誓ったのであった。

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