「ハナとさよとハンタ」

ハナは川辺に立って向こう岸を眺めていた。一見鬱蒼とした森や、山への入り口に見えるあれは、抜けてしまえばすぐに城下町の、うすい藪である事を、ハナは知っていた。あの場所へ玻璃の王宮が無ければ、この世界のどこへも、ハナはそれを見出すことはない。風の音は強く、ハナの耳へ打ち付けるように、川から立ちのぼった冷たい空気が、ハナの足元をかすめるように流れて行って、すぐ後にわかるだろう自身の喪失を川床の冷たい世界へなぞらえていた。それが出来るだけ自身にとって、静かで、清らであることをまるで産まれたての赤子のようにおそれながら、祈っていた。確かにその時、ハナは自身の知る己の何よりも正直で清らな心持ちだった。けれど、この川を渡ってしまえばすぐにでも済む事なのに、どうにも勇気が出ずにもう幾週間もここへ立ち往生していた。小さな村は面積に反して多くの村人を抱えていた。そこにひとつの若い家族があって、そこのさよという娘が大変にハナへ親切にしてくれた。彼女はハンタという夫を持ち、4つか5つになる一人の男児を、2人はもうけて育んでいた。さよはとても明るい気性の持ち主で、若くはつらつと、ハナにはそれが少し可愛らしかった。毎日さよがあれやこれや言いつけるのを、ハンタは文句のひとつも言わずに右往左往していた。たまにぶつくさ言いながら息子のそばを通りかかると、子供はハナへ小さな舌をペロッと出して合図した。とても裕福な村とは言えないものの、子供は健康そうに育ち、家族は幸せそうだった。何かとさよが言いつけて、ハンタにハナへ飯を持って行かせたり、さよがハナの所へ来て飯を食いに来るように誘ってくれたりした。獣の皮を取り、なめして、ハンタはそれを町まで売りに行く。時々港の方まで幾日もかけて他の家の分まで売りに行った。さよもいつも忙しく立ち働いて年の頃は未だ20もいかぬのに、近所のご婦人方のご亭主の愚痴等をいやな顔ひとつせずに聞いていた。ある時さよはハナに言った。自分は元々この村の人間ではなく、港の方で茶屋の給仕をしていた。どこの子供か知らないけれど、売女の子であるのは確からしい。あの場所で、茶屋の給仕などとても自分がありつける仕事ではなかったのだけど、自分は運が良かったと。自分やハナのように、自分やさよの母親のように、私たちはたった少しの差でいつでもいやな目にあうのだ。小さな頃は大変にいじめられてこのまま海へ身を投げようと思ったこともあったのだとさよは少しさみしそうに笑って言った。自分を、売女の娘だと言わなかったのはハンタだけだったと、彼女は真面目に言って、にぎり飯をハナへ渡し、何だかよく分かんないけど、ハナも負けちゃダメよ。と言って笑った。さよが笑うとまぶしかった。あれは小さな太陽みたいだとハナはうれしくてハンタへ言うと、ハンタは頭をボリボリかいて、女子供はそうやって言うのが好きみたいだが、自分には分からん。さよへ直接言ってやってくれと、いつもながら静かに言った。ハンタは乳飲み子の時に籠へ入れられておそらく打ち捨てられたのだろう、川へ流れているのをここの村の寺の坊主が拾って、ここの他の童子たちと同じように育てた。ずいぶん若いうちに寺を飛び出して商いをするようになった。腕は確からしく、きっとここの村長になるのだとさよは慎重にハナへ話した。私もうまい事やらないと。と言ったさよが又、少女のようで可愛らしかった。川の水は豊かで、眺めていると静けさに心をゆだねたくなる。ハナは振り返ってハンタへあいさつをして少し話し、(ハンタは商いの事で町の事情をよくハナへ聞きに来てると本人は言うが、さよが様子を見て来いと命じているのはハナには明らかだった。ハンタへそう言うと、頭をボリボリかいて困った風な顔をするので、さよはそういうお前を見てるのがすきなんだろ、さよへいつもありがとう。と礼を託けた事があった。)「そういえばお前はどうして寺を出たのだ。」ハナはふいに思い出したようにハンタへ訊ねた。ハンタはめずらしく少しにやけたような笑いをしながら言った。「あの坊さんが嫌いだったんだよ。」「そうか。少し分かるな。道心で腹が満たせる奴もめずらしい。」ハナが言うとハンタは声をたてて笑った。ハナもつられて少し笑ってからすぐにそれを引っ込めて、真面目な顔で川面の流れを見つめ、独り言のようにつぶやいた。「お前はそうやって笑うけどな。」よく聞き取れなかったのか、ハンタは目を丸くしてハナを見た。「商いはどうだ。おもしろいか。上手い事やってると、さよは話していた。」ハンタは頭をボリボリかいて少しうつむきながら、「上手い事やってると思う。ここいらの連中も色々頼んでくれる。けどなァ、どうも何か物足りん。どうやったって俺たちは貧しいまんまだろ。もっと上手い事やろうにも、どうにもなァ、商いより戦いやなんかの方が儲かるんじゃねぇかと言ってるのもいる。子供が流感やなんかなったって、困った奴にはどうすることもできないしなァ。」ハナは少し考えた。玻璃の王宮以外のことを久しぶりに思った。「ハンタ、焦土に、芽吹きはあるかな、草花や、虫のいなければ、実りはあるだろうか、獣は来るか?この川の水は、汚れても飲んで大丈夫だろうか?」ハンタは、ハナが大分昔に見たある若者に似ていた。あの村では女たちは目をくまどり、実に美しかった。若者はいつも飢えていた。あらゆるものに。土地は元々枯れていて、人でさえ淘汰が激しい。おれは本当の飢えを知らないのだと、幾度も行ったり来たり考えて、答えの無いままに又、たくさんの場所をさまよってここへたどり着いた。「ハンタ、さよが可愛いか。」ハンタは少し照れくさそうに頭を又、ボリボリかいてからごく小さな声で言った。「そりゃ、まぁ、一緒に居るしなァ、っていうことは、そうなんじゃねぇかな。」「じゃぁやめておけ。おれには分からんが、さよが泣く気がする。おれにもさよは可愛い。それに商いの方がおもしろいだろ。港へ行って帰って来るとさよが機嫌悪いだろ。」ハナは笑った。「ハンタ、何が女性を鬼へ変えると思う?」ハンタは困って言った。「俺ァ学が無くてな、お前やなんかの言ってる事が良く分かんねぇ。さよがお前へわるさでもしたか?」ハナは少し静けさに耳を澄ましてから笑って言った。風の音を聞くように。又、川面が太陽を反射してまぶしく所々輝いた。「おれにはお前たちの事は分からん。只、さよは可愛い。あれはお前の思うよりずっと女らしくてか弱くて可愛い。おれは他人で女だからそう思っただけだ。だれにでも眠っているものを、時に人は呼び覚まさねばならん事がある。お前たちがいやしさや、おもしろさを感じても、本人にとっては仕方のないことなのだろう。おれはそう思う。そして実は、すべての女性の人身にそれはあるものだ。おれは静かに、安らいでいてほしいと思うことしかできない。」ハンタはハナを見た。さよの言う通り、少しどこかおかしいのだろう。「さよへ礼を伝えてからここを出る。2,3日内かな。」ハナは又、川岸の向こうを見つめた。風が川面をゆらし、日の輝くのが美しい。川床は未だ、静けさを保ったままだろう。

ある時うつくしい幸福な朝が

私の大切な人たちや、苦しい人や、涙の元へやって来て

痛みや、苦しみを、あの輝かしい陽光が、

取りのぞいてくれますように。

草花の美しさや、星々のきらめきが、

新しいあたたかな潮流を

いやしめられんとするか弱い人の、生命と同等の、

各自たる希望を

ひと時でも与えてくれるように、私は願う。

花ケモノ

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